根も葉もある嘘八百

光れ 光れ その先に何があっても

MARSとアウトローとスターの話

MARSを読み始めた。単刀直入に言うけれど、零は木村拓哉だよね?

バスケもバイクも軽々こなして、寝顔がどうしようもなく綺麗で、普段は不真面目なのに自分が本当に好きなものには真剣で、サラサラのセミロングヘアで女の子に優しくて、バカな事ばっかりしててちゃらくて、でも下ネタをいくら言っても下品にならない。ワルなはずなのに誰もが惹かれてしまう。彼がいるだけでいつの間にか周囲が楽しそう、人が集まっていく。周りの女の子からちやほやされて取り合われて、「俺は景品かよ…」ってぽそっとつぶやくシーンなんて、「キムタク」が独り歩きすることに戸惑う20年前の木村拓哉そのものではないだろうか。

↓イメージしているのはこのころの木村さんです。

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それと、読みながら思ったのは、これはアウトローがスターでいられたころの話だという事。今は、アウトローはメインストリームのスターになれない。スターはセックスやAVの話を公然とできない。何もないなんて思っていないけど、何も無いように見せなくてはいけない。恋もタバコも、漠然としたどこか、にあるような状態にするのがお約束でしょう、と受け手も送り手も暗黙の内に思っている。私もそのお約束、を求めてしまう一人なのだけど、そのルールがない時代へのうらやましさを、90年代作品から感じるときがある。木村拓哉は昔から、大スターでありながらデートも下ネタもラジオで自由に語っていて、子供が大人になったみたいに成長していて、まさに90年代のスターだったのだと思う。

時代の厳しさなのか、狭量なのか、それともいつか揺り戻しが来るのかはわからないけれど、ワルさがあってこその色気や、スター性は確かに存在する。けれど今はどうしても、お行儀よく、綺麗に、正しくふるまうことがよしとされていて。それは悪いことではないけれど、たまにちょっと、寂しい。

 

というわけで今の時代にこれを実写化するのは正直無理があったのでは?出演者のせいでは決してないし、もしかしたら脚本や演出にもドラマ放映時絶句したけれどそれもやむを得ないことで、この企画自体に無理があったのかもしれない。

ホットロードを見た時も思ったけれど、バイクと海の風とナイフで彩る恋愛は、90年代だから、というエクスキューズをつけて見られる漫画の中の世界でないと、現代人には受け入れづらいだろう。

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