根も葉もある嘘八百

光れ 光れ その先に何があっても

ディズニーランドと夢の話

小さい頃からディズニーランドが好きだった。パレードで流れる、大音量の音楽を聴くと胸が締め付けられるような切なさと、今すぐにでも走り出せそうな高揚感を感じた。ミッキーがミッキーじゃないことくらい頭でわかっていても、手をぶんぶんふるし写真も撮った。幼い私にとってディズニーランドはハレ、のイベントの代表だった。

だからハレの終わりには取り分け敏感だった。テーマパークにいったり、旅行にいくと大体、昼間の16時頃から私は元気がなくなる。学生時代の日曜日もそうだった。もう少しで終わりが近づいてくる。その感覚に耐えられず極端にテンションが下がることが多かった。そして夜になると、残りわずかを楽しむしかないという開き直りと、花火やパレードのナイトイベントに心踊らせ、走り回るのが常であった。

ひとときの夢が好きだ。幼い頃からどこか冷めていて、日常は願いの叶わない、つまらなく退屈なところだと思っていた。それを変えられないのだから、一瞬の強い輝きを見つけ、その思い出に浸りながらまたつまらない日常を過ごせば良いと、思っていた。
そんな自分が大きくなって、アイドル、舞台芸術などのエンターテインメントにずぶずぶとはまっていったのは至極当たり前のことなのだろう。

毎日に、現実にもう少し向き合わなくてはいけないと思いつつも、心は常に一時の夢の中にある。もっとたちが悪いのは、そんな風に諦めたことをいっていながらも、日常という地面もいつか、雲がふわりと浮かぶように、煌めく夢のような賑わいを見せてくれやしないかと、そんな日々を作れないかと期待することをやめられない自分なのだろう。