根も葉もある嘘八百

光れ 光れ その先に何があっても

虹のかかる空はここにある 地球が黄色い方のキンプリを語る

キンプリが好きだ。KINGとPrinceの方も好きだけれど、地球が黄色くなる方のキンプリは、私が唯一はまったアニメ作品だから、特別な存在だ。今日はKING OF PRISMの世界について、思ったことをつらつらと語る。

 

Over the Rainbowの歌うOver the Sunshine!が好きだ。一条シンの歌うOver the Sunshineももちろんいいのだけど、このは根本が違う。

シンくんの歌うオバサンは虹のかかる「空」がここだよって言ってるけど、オバレはこの空に僕たちが「虹」をかけるよ、と言っている。私には、そう聴こえる。

シンくんにとっての虹は、走ることで自然とかかった虹だ。すなわちプリズムラッシュである。

そしてその空を見て「煌めいている…!」てなるのが聖。

一条シンは虹をかけるための練習はしているし、その練習は大変なものも含むけれど、あくまでしたくて自然とやった練習なのだ。シンくんには悔しい、がまだなさそう。

シンくんには自己評価の高さ、そうprideがまだない。キングカップ4位に対しても、もっと頑張らなきゃな!とは思っているし、「僕もヒロさんみたいになりたいなぁ」ではあるんだけど、例えばジョージに「俺の方が上だジョイ♪」てされても、「はぁ…」にしかならなくて「はぁ!?」とは思わない。

「俺の方が本当は能力が高いのに!大人の力でかさましした煌めきに負けるなんて…!」てゲス顔したりは絶対にしない。

もちろんキンプリとキンプラでは格好つけることを覚え始めたり、成長もあるけれど、まだプリズムショーを「やりたかった」から「やるのが楽しくなってきた」に過ぎないと思う。

それを否定しているわけではない。むしろ育てる側からしたらまだ自我が出きっていない分育て甲斐があって、シン君の今いる段階がすごく接してて楽しいのかなとも思う。

見る側が少し上に立って、相手を引きあげられるというか。その状態を好む人はいるよね。

 Over the Rainbowの話に戻る。

よくオバレはアイドルなのか?という問題が発生する。絶対アイドルの速水ヒロはどこにいようとアイドルだけれど、カヅキのストリート系とコウジのアーティスト系としてのポリシーは、アイドルと言っていいか躊躇するものがあることも確かだ。それでも私は、オバレでいる間は、カヅキもコウジもアイドルだと思う正直、オバレの活動には彼らのやりたいわけではないもの、も含まれるだろうから余計にそう思うのだ。

きっと三人とも、「自分が人に見せて恥ずかしくないものを完成させる」という意識でオバレの活動に励んでいる。彼等のパフォーマンスは、athletic coreもOver The Sunshine!も、胸を張って人に見せようとしていることが伝わる内容だ。

しかしもし、同じものを披露する中で見る人がいなかったら?

ここだけは、ヒロと、コウジやカヅキで違いが出てくる。

コウジが屋上で歌う姿や、カヅキがネストオブドラゴンで闘う姿は、舞台の上であらわすものと差がない。情熱〇陸のドキュメンタリーで、そのままテレビに流していいものなのだ。

しかし速水ヒロは違う。海辺で走り、転び、ヘロヘロになり後輩に抜かれる姿はテレビカメラが入ったらすぐに様相を変えてしまう。すくっと立ち上がり、カメラが映していることに気を取られず、練習に打ち込む仕草、を演じきってしまう。

海岸をふらふらに走る速水ヒロの姿を見られるのはこの世界の私たちだけなのである。あの世界では絶対に見られない。あぁ私この世界に生きていてよかった。

速水ヒロがプリズムショーをすることに「自分のため」がないとは決して思わない。自らの野心のため、高みを目指すため。

しかし「見てくれる人のため」が常に速水ヒロの元にはあって、だから王座を目指す最大の競技、であるキングカップの場でも客席を跳ね観客に手を振る。あのときのヒロさまのファンサはフィギュアでいうイナバウアーみたいなものだと思っている。純粋な加点対象になる動きではない。

そしてもちろん、彼はプリズムショーそのものも好きだと思う。だから勝利や完成に拘る仁だけではなく、純粋過ぎるプリズムの煌めきへの愛を尊ぶ聖との両方のもとにいられる。

 

 

ここで法月仁と氷室聖の違いも話したい。

法月仁は、プリズムショーに対して、やるのが楽しいかどうかは関係ないと思っている。それよりも重視しているのは、完成しているかどうか。もっと言えば完成して見えるかどうか。実際にすべてが本物ではなくとも完成して見えればいい。しかし当然ながら中途半端な努力や覚悟のものではまがい物としてすら完成形にはならない。だから田舎からのし上がろうとした野心のあるジョージへ口パクの補助はするし、方針は違えどエネルギーの高いアレクは渋々でも自分の元に置く。シャッフルの他駅ちゃんにしても同じで、4人はいい子たちで未熟な点もまだあるけれど、エンターテイナーとしてはエデロ生よりも「覚悟」がある。ここは妄想も入るけれど、エデロ生は未熟ながらもプリズムショーが好きでやりたい、人で他駅ちゃんはプリズムショーを好き、やりたいよりプリズムショーで「前に出たい、、売れたい」の結果を見てシュワロに入ったのではないか。そしてその意気込みと結果のために努力を惜しまない、何かを捨てたり偽ることも惜しまない気持ちがパフォーマンス力のまだ成熟していないところを補って、仁の目に留まったのではないだろうか。ちなみにルヰくんがシュワロにいるのも、彼の目的は多々あれど、その達成のために舞台で「やり遂げなきゃいけないことがある」という覚悟があったからではないだろうか。ルヰくんは、一条シンという個人を求める気持ちはもちろんあるけれど、それだけではない。個人の表現者としてのプリズムの煌めきを愛し伝えたいという思いもある。これは使者としての使命感にも繋がる。

影と野心のある人にこそ仁は興味を示すのだ。全てを好き、でいなくともやり抜く意志や根性がある人間が法月仁の元に残る。速水ヒロが法月仁の元で育ったこともこれで納得がいく。

きっと仁は心の底では、煌めきへの憧れとコンプレックスを抱えているから格、に拘るのだろうけれど。

 

では聖はどうだろう。恐らく彼はプリズムショーが好きか、楽しんでいるか(=煌めいているか)を最も重視している。だからくじけたヒロに対しても、どうして元気が出ないんだろう…?なんだよな。

ちなみに仁にとってまだ一条シンが言及されていないのも理由はここだと思う。未熟と言うにはまぶしすぎるが、彼にはまだ「楽しい!」以外のものがない。上に立ちたいという野心や、名声を得たいという欲望も。

 

シンくんが覚醒したら仁は彼を欲しがるかもしれない。

 

二人とも正しくはなく、欠けている所が確実にある。仁と聖に限らず、プリズムワールドの登場人物は皆長所と背中合わせの短所を持ち合わせている。

だからこそ現実味があり、いつまで考えてみても飽きることがないのだと思う。